久々、お通夜に参列して感じたこと

今週は、久々にお通夜へ参列。

故人の方からは、自分を多数の中の一人として捉えられている距離感ながらも

訃報を受け「これは行くべき(であろう)」と、直感に突き動かされるような感覚も働いて会場へ。

このような場に足を運ぶには(故人との)距離があったことから、第三者的な感じでいられた部分もあったと思いますが、

親しい人が語る故人への思い(弔辞)であったり、急変の場に居合わせた方からの死を迎えるプロセスなどを聞かされると

「ぐっ」と感情レベルが高まる感じもあり、故人への思いも強まり、死後になって親しみを覚える感情を湧いてきました。

参列者から披露されたのは、何気なく言われたひと言であったり、大事にしていた一葉の写真(にまつわるエピソード)であったり、

表立ったことよりも、その人の人がらが伝わってくるごく些細なことなんだなぁ、と感じられたことは、今回の経験で最も印象に残ることに。

SNSの普及で、ゆるくつながる人間関係にフォーカスされた本をこの頃見かけるようになりましたが、

意外と「故人と過ごした時間の長さ、関係の密さというより、瞬間的な重量感(インパクト)といった捉え方もあるなぁ」と。

死を知らされ、生かされているを知る

日ごろインターネットに、特にSNSでは訃報に触れる機会が格段に増す印象で、

自分自身は400ページ超に及ぶ倫理体験、死後の世界等を描いた『生きがいの創造』

<< 2015年12月27日投稿:画像は記事にリンク >> 飯田史彦さんが経営学者の立場から紐解いた「死後の生命」「精神世界」そして「生きがい」:『生きがいの創造』[完全版]読了 ②

を読了していた経緯もあり、人より死生観を持っていたつもりでいましたが、

今回、お通夜に参列したことで、新たに感じられたことに、上書きされた考えを得られ、

故人への哀悼とは別途、さまざまその場で思いを巡らせることが出来たのは得難き瞬間となりました。


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