能楽師 安田登さんが説く、一つに決めずいろいろなことをやってみる生き方:『三流のすすめ』読了

能楽師 安田登さんの『三流のすすめ』を読了。

サイン本販売きっかけで本書を知り、

サイン本から内容へ関心が移行し・・

タイトルから内容に興味が移行していき・・ 概略を読み、購入に至っていた経緯。

三流、本来の意味

本書は、

” 日本社会は一流志向です。ほとんどの人が一流のほうを向いて生きています。むろん、その方向が向いている人はそれで問題ありません。

しかし、そちらの方向で生きづらい人、すなわち三流の人も無理やり一流の方向に歩むことが求められています。”(p253-254)

という感じられる日本社会の風潮下、

” 今までの自分はめざしている方向が違っていたのかもしれない。自分が目指すのは、本当は三流的な生き方だったのに、世間の無言の圧力で一流をめざしていたのではないか、と。”(p003)

と考える示唆を冒頭の「はじめに」で提示し、定義されている三流とは

” 三流の本来の意味は「いろいろなことをする人」です。

試験勉強を始めると別の本を読みたくなる。なにかをやっていても目移りをして、すぐほかのことに手を出してしまう。

そんな人は、一つのことに満足できずに、いろんなことに手を出します。いろんなことに手を出すから、一つのことがなかなかものにならない。

むろん、その道のトップになどはなれはしないし。世の中に認められて有名にもなれない。大金持ちにもなれません。

でも、それがいいのです。”(p002-003)

と肩身の狭い思い人たちに向け、

” 吉田松陰(一八三〇 – 一八五九)はそれについて、「十五貫目の物を持てる人は十五貫目を持ちなさい。二十貫目の物を持てる人は二十貫目を持ちなさい」と言いました(「講孟劄記」)。

全力を尽くすということですが、もう一つ大事なことは、人には人それぞれ力の差があるということです。

みんな一律にこれだけのことをせよ!というのとは違います。その人にとっての一生懸命、それが一生懸命なのです。

あるいは一生懸命にできない、という人がいたら、それもその人の一生懸命。それはそれでいいのです。”(p105)

と古典を頼りに荷をほどく生き方に、

” なぜ、才能もなく、学校の勉強もできなかったのに本を書いたり、台本を書いたりすることができるのか。

ひとことでいえば背水の陣でのさまざまな工夫です。本書では、どんな工夫をしかたを書いていきます。”(p213)

と、能楽師の枠にとどまらず中国人のふりをして中国を旅すべく身につけたという中国語に、

” 先生からは「この成績で試験に合格した人は今までいない」”(p224)

と言われながらも見事合格してしまった中小企業診断士に、或いは出版したカテゴリーがエイズ、3DCG、ゲームの攻略等々と広範な安田登さんのご経験を踏まえ教授してくれる著書。

何より、ご自身で実践されてきたことを土台とし、それらを『論語』も含め古典の読解で補完していくことで説得力十二分 ^^

不惑とは制限を取り払うこと

個人的には『論語』からの引用、解釈となる下記

” 四十歳くらいになると、人は自分を区切りがちになる。「自分はこんな人間だから」とか、「自分ができるのはここまでだから」とか、あるいは「これは自分の専門じゃないから」などと限定しがちになる。それをしちゃいけないというのが「四十にして区切らず(不惑)」です。

四十歳といっても孔子の時代の年齢ですから、今の寿命の感覚で言うと五十歳から六十歳くらいでしょうか。

そういう年齢になったら、意識して自分の制限を外し、むしろ「今からいろんなことをやっていく」と決めようと提案しています。それによって人は、さらに一段、自由になります。”(p098)

の一文に背中押される思いで、サインきっかけで

購入本に書かれていたサイン

良い著書との出逢いを実感することが出来ました〜


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