オーストラリア ライフスタイル&ビジネス研究所:「漂流中」の巨大ゴムアヒル沖合で確保!

「漂流中」の巨大ゴムアヒル沖合で確保!

” オーストラリア西部パース(Perth)のビーチからインド洋に流されてしまい、行方不明となっていた水泳クラブの巨大な黄色いゴム製のアヒルの消息が、1週間を経てやっと判明した。同クラブの会長が19日、明らかにした。

今月11日に「逃走」したのはコーバーン・マスターズ・スイミング・クラブ(Cockburn Masters Swimming Club)が所有する黄色い大型ゴム製アヒル「ダフネ(Daphne)」。クラブ側は目撃情報の提供を呼び掛けていた。

だが19日、地元漁師のトニー・ギブ(Tony Gibb)さんが、失踪当日に海岸から30キロ離れた沖合でダフネを見つけていたと明かした。

豪ABCに対してギブさんは、「その時点では行方不明のアヒルのことは誰も知らず、どこからやって来たのかも分からなかった」「(ダフネに)異常はないようだった。

しっかり膨らんでいたし、一切損傷もなかった」と語った。ダフネを引いて岸まで戻ったギブさんは、すぐに返還する意向だという。

その一方で、ダフネが流された際、泳いで後を追ったが引き離されてしまったクラブのピーター・マー(Peter Marr)会長は、「慎重さが必要とされる交渉だが、ダフネには戻ってきてほしい」と冗談を飛ばした。”(出典:AFPBB News

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糸井重里さんが振り返った『ほぼ日刊イトイ新聞』が出来るまでとそれから:『ほぼ日刊イトイ新聞の本』中間記

コピーライティングをはじめとして、クリエイティヴの分野で多彩な才能を発揮されている糸井重里さんの著書『ほぼ日刊イトイ新聞の本』を読み始めて

 第一章 ぼくが『ほぼ日』を始めた理由

 第二章     とにもかくにもはじまった

 第三章 「いま仕事が流行っている」

 第四章 『ほぼ日』をはじめて気づいたこと

 第五章 もう一度よく考えてみた

 第六章 『ほぼ日』に風が吹く

 第七章 『ほぼ日』幼年期の終わり

 第八章 その後『ほぼ日』

とあるうちの第三章まで読み終えたので、そこまでのおさらい。

序盤は、糸井重里さんのインターネットとの出会いに、

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オーストラリア ライフスタイル&ビジネス研究所:「おかえり、ファーディー」スコット・ファーディー 6年半ぶりの釜石帰還

「おかえり、ファーディー」スコット・ファーディー 6年半ぶりの釜石帰還

” 「ファーディー!ファーディー!」

小さな体育館に子どもたちの愛らしい掛け声が響く。被災地・岩手県釜石市の小佐野小学校。

歓声の先では、あごひげ、坊主頭の197cmのオーストラリア人が楕円のボールを追いかけていた。

3月12日の月曜日の午前。震災時、釜石のラグビーチーム、釜石シーウェイブス(SW)に所属していたスコット・ファーディー選手が6年半ぶりに”里帰り”した。

『復興「ありがとう」ホストタウン事業』の一環だ。小学校では、6年生の子どもたちと交流し、タグラグビーを一緒に楽しんだ。

「子どもたちが元気で疲れました」と、ファーディーは顔をほころばせた。

33歳のラグビーワールドカップ2015年大会の豪州代表選手。まじめな性格は相変わらずで、子ども相手でも必死に走り回った。

「最高の時間を過ごせました。ずっと釜石のことを想っていました。懐かしい。まちの復興の様子も見ることができて、うれしかったです」

あの日、この日参加した子どもたちはまだ、4歳か5歳だった。2011年3月11日。ファーディーは釜石に来て3年目だった。「人生を変えるような瞬間」を体験した。

練習後、山側の自宅に戻った時に大きな揺れが始まった。まちの海側は津波に襲われた。釜石では1,000人を超える死者・行方不明者を出した。混乱、絶望、失意……。

震災直後、釜石を訪ねた際、ファーディーは怪力を生かし、元ニュージーランド代表のピタ・アラティニらチームメイトと一緒に救援物資センターで大きな荷物を運んでいた。ボランティア活動だった。

当時、ファーディーは26歳。オーストラリア大使館の車が釜石にやってきて帰国を勧めたが、その申し出を断り、釜石に残って救援活動に奔走していた。彼は「ここに仲間がいるから」と理由を説明した。

「だって、ラグビーはワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)でしょ」

東日本大震災から7年を迎えた11日、ファーディーは釜石に戻ってきた。

いま、アイルランドのクラブチームに所属している。優しく、思いやりのあるファーディーは所属クラブのウェアやグッズの土産をわんさとスポーツバッグに詰めて、釜石に帰ってきた。

その日の夜は釜石SWの松倉グラウンドそばの酒・雑貨屋の隅っこでラグビー仲間と缶ビールを口にした。笑い、語らい、人生の不思議さを思った。「運」と「縁」である。

ファーディーと同じく2009年に釜石入りした長田剛コーチは顔をくしゃくしゃにする。3年間、一緒にプレーした。ふたりは大の仲良しだった。

「彼(ファーディー)とは、よく一緒に飲んでいました。ずっと釜石を忘れずにいてくれたのはうれしいですね。誇りにもしてくれているのかな」

ラグビーワールドカップ2019アンバサダーも務める釜石SWの桜庭吉彦ゼネラルマネジャーはこう、漏らした。

「心強いですね。ええ、彼の思いが。釜石に戻ってきて、昔のように振る舞ってくれる。心強いです」

12日朝、ファーディーはひとり、ホテルの周りを散歩した。震災当時、瓦礫(がれき)の山だった川、海沿いの市街地を歩いた。

まちはほとんど復旧している。でも、プレハブの仮設住宅はまだ、釜石市内には残っている。

復興はまだ、道半ばであろう。その過程において、来年秋、釜石でも開催されるラグビーワールドカップが復興を促進させる「希望」となっている。

ファーディーは、小学校訪問のあと、震災で津波に飲み込まれた鵜住居(うのすまい)地区に建設中の釜石鵜住居復興スタジアム(仮称)も見に行った。

鉄骨で組み立てられた櫓(やぐら)の上まで上がった。気温7度。潮風は冷たく、櫓の上はちょっぴり怖かった。

青空の下、北西の大槌湾に向かって翼を広げているように見える白色のメインスタンドの屋根がキラキラ光っている。観客席の設置や塗装工事、芝張りなどはこれからだが、土台部分はほぼできあがっている。

スタンドの屋根は新たな釜石の船出を象徴するかのごとく、白鳥が羽ばたいているようにも見える。ファーディーは漏らした。

「いいスタジアムだな。小さなラグビーのまちに小さなラグビーのスタジアム。でも、大きく、未来に向かって飛び立つみたいだ」

釜石でのワールドカップはお祭りみたいな大会にしてほしい、と言葉を足した。

「釜石の祭りを見て、熱い人が多いなと思っていました。ハートフルな人が多い。試合も祭りみたいになるんじゃないでしょうか。釜石ソング(釜石SW応援歌)も、釜石のフラッグ(大漁旗)も。にぎやかになる」

ファーディーはこのあと、松倉グラウンドに車で戻り、釜石商工高校と釜石高校のラグビー部員にラグビーを指導した。

夜は、野田武則市長らと共にタウンミーティングに参加した。一日中、釜石市民との交流を楽しんだ。

「おかえり、ファーディー!」と銘打ち、来年のラグビーワールドカップへの期待などを語り合った。

そういえば、冒頭の小佐野小学校のタグラグビー交流のあと、ラグビーワールドカップのことを聞くと、ラグビーチームのキャプテン、小学校6年の及川勝太くんは目をキラキラと輝かせながら、こう言った。

「釜石のみんなが元気で明るくなれるような大会になってほしい。これだけ、まちが復興したんだというのを、みんなに見せられるような大会にしたいんだ」

小佐野小学校の2階の校長室。壁にはひとつの白い色紙が飾ってある。真ん中には大きな黒い文字でこう書かれている。”(出典:web Sportiva

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J-WAVEな日々に魅了された曲紹介 PART 34 〜 Gwen Stefani, GIOVANCA & Leslie Smith

J-WAVEを日中のBGMとしている日々に「!」となった曲紹介の第34弾。

まずは歌詞に日本語頻出の

 Gwen Stefani – Harajuku Girls

Gwen Stefani.–  アプローチとしてはSTEEL PANTHERAsian Hooker“を彷彿とさせられましたが、

こちらは更にピンポイント。外国人から見た原宿は、こんな感じとは、このような感じ(音色)なんでしょうかな ^^

次もテンション高めでスパークしてくる感の

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オーストラリア ライフスタイル&ビジネス研究所:聖パトリックデー 緑とビールで祝う

聖パトリックデー 緑とビールで祝う

” 17日の聖パトリックデーを祝うため、シドニーにあるオーストラリアで最長寿のアイリッシュ・パブでは100樽以上のギネスビールが「念には念を入れて」用意され、朝から緑色に身を包んだ客たちを迎え入れた。

ロックスにある「マーカンタイル」には、 朝7時の開店から400人が朝食を食べに訪れ、客の何人かはギネスビールをパイントサイズで飲んでいたという。

同パブには、夕方の4時までに2,000人以上が訪れており、朝食とランチの時間にはアイルランド人ダンサーが余興をし、夕食時にはアイルランドのバンドがフォークソングを歌ったり、民族ダンスのジグを踊ったりした。

NSW大学のアイルランド研究をしているローナン・マクドナルド教授によると、オーストラリア人の3分の1がアイルランド人の血を引いているという。”(出典:JAMS TV

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二井原実さんが振り返ったLOUDNESSで得た栄光と苦悩の日々:『二井原実 自伝 真我 SINGER 』読了

LOUDNESSのヴォーカリスト 二井原実さんの『二井原実自伝 真我 Singer』を読了。

” 1988年は、日本国内を重点的にツアーした。そしてその年末、僕は大きな転機を迎えることになる。

バンドがすでにロサンゼルスで次のアルバムの制作に着手し始めていた頃のことだ。ふたたびマックス・ノーマンと組んで作業することになり、僕の兄貴分であるスティーヴが今回も歌詞作りを手伝ってくれ、歌のコーチ役を買って出てくれていた。僕らはすでにデモを作り始めていた。

そんな頃、とてもショッキングな出来事があった。アルバムのプリプロダクションが進みつつあった頃のある日、アメリカ人ジャーナリストの電話インタビューを受けることになった。

すると彼は、こう切り出してきた。「アメリカ中で ラウドネスのヴォーカルが変わる という噂がある。実際、いろんなヴォーカリストに声がかかっているらしい。それは本当なのか?」と。

それを彼は、こともあろうに他ならぬ僕の直接尋ねてきたのだ。僕自身、その時点ではそうした動きがあることをまったく知らずにいたというのに。

ただ、バンド内の空気にちょっとそれまでとは違うものを感じていた頃ではあった。とはいえ僕としては衝撃的だったし、頭のなかで本当にガーンという音がするようだった。

当時はちょうど、僕と他のメンバーたちは別のスタジオで作業していて、コミュニケーションがあまりとれていなかった時期でもあった。

僕のいないところでどういう話が進んでいるのかも知りはしなかった。そして数日後の朝、メンバーたちが揃って、僕の部屋にやってきて「ヴォーカリストを変えてやっていきたい」と直接告げられた。”(p120-121)

という当時ファンにも大きな衝撃を与えたLOUDNESS解雇に至る経緯であったり、

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オーストラリア ライフスタイル&ビジネス研究所:35歳未満の日本不動産への投資が加速

35歳未満の日本不動産への投資が加速

” オーストラリア人は価格の安い日本の不動産への投資を加速しており、特にスキーリゾートが人気の投資先になっている。11日付サンヘラルドが伝えた。

専門家によれば、シドニーやメルボルンと比べて安価な日本の不動産は、特に国内の不動産が高すぎて手が出ない若いオーストラリア人を引きつけているという。

シドニー在住の港湾労働者のジェイク・ヒース氏(33)は約10年前、北海道のニセコのスキー場で働いた後、シドニーに戻る直前に日本で初めての不動産を購入した。

ヒース氏の夢は、ニセコにスキー客のための小さな家を建てることだが、オーストラリアと日本の間の融資条件の厳しさが障害になっているという。

同氏は半年前から融資を申請しており、承認されるのを待っている状態だ。同氏を含め、ニセコに投資を行うオーストラリア人は多い。

同じスキーリゾートである長野県の白馬村もオーストラリア人にとって人気の場所の一つで、7部屋の住宅が43万3,578豪ドル(約3,600万円)で購入できる。

オーストラリアのスキーリゾートのスレドボでは、ワンルームのアパートだけで24万豪ドルする。

日本への不動産投資を仲介するNippon Tradings Internationalのジブ・マーゲン氏は、顧客の40%がオーストラリア人だと説明。

日本政府が外国人による土地の購入や所有に規制を設けていないことを理由の一つに挙げている。

電信送金のOFXによれば、35歳未満のオーストラリア人による不動産投資のための海外送金は2015年から17年末の間に80%増加しており、このうち5割以上が日本の不動産投資用だという。”(出典:NNA ASIA

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サクラの開花宣言に合わせて終了としたい、2018年の花粉に翻弄される悩ましき日々

花粉症との自覚を持ってから四半世紀ほど。「一度、症状が顕在化すると(もう治らない)」との認識から

毎年、漏れ伝わってくる新手の治療法に期待することなく、春めいて暖かくなってくると、「はぁ、今年もこの季節が来たかぁ・・」と諦めの境地に。

自分の場合、常時、薬が手放せなくなるような状況には至らず、

時期的に「何をやっても(ダメ)、、」という日が数日続くという感じ。

今年のそれは1週間前(の土曜日)から火曜日くらいまで。

花粉の症状が出ると、すっかり忘れている前年の状況と比べて「去年、どうだったかなぁ」と、思い出そうにも思い出せず、

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「冒険」に出たものだけが、大きな果実を手にすることができる