百田尚樹さんが描く、江戸後期に囲碁界で繰り広げられた「名人」を懸けた棋士たちの死闘:『幻庵 上』読了

本の帯に

“『永遠の0』で作家デビューして10年、ずっとこの小説を書きたかった。”

という一文が踊る百田尚樹さんの最新作『幻庵  上』を読了。

囲碁を題材にした小説で、私にとっての囲碁は幼少の頃の祖父とのコミュニケーションツールで初心者ながら

1月に参加したサイン会↓の対象書籍という縁で購入した一冊。

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折り返し地点ながら408ページに及ぶボリュームで、筋を追い切れていないところはありますが、

” この物語の多くは囲碁というゲームのやり方やルールを知らない人かもしれない。そこで囲碁はどういうものであるかを少々乱暴な形で説明する。

チェスや将棋や囲碁は「完全情報開示ゲーム」と言って、プレーヤーのすべての意思決定時点において、これまでにとられた行動や実現した状態に関する情報がすべて与えられているゲームである。

麻雀やポーカーのような、「運」の要素は一切ない。

また同じボードゲームでも、チェスや将棋とはまったく異なる。チェスと将棋は言うなれば「ロールプレーイング・ゲーム」である。

ロールプレイングとは、もともと学習方法の一つで、「現実の場面を想定して、複数の人がそれぞれの役を演じ、疑似体験の中で適切に対応できるようにする」というものだ。

心理療法にもよく用いられる。チェスや将棋も、王様、武将、騎兵、歩兵などのキャラクターを持ったコマがあり、それぞれ個別の能力が与えられている。

・・中略・・

一方、囲碁で使われる石には、能力も個性もない。「究極のアブストラクト(抽象)ゲーム」と言える。

そして自分の手番であれば、基本的には盤面のどこに石を置いてもいい。自由度は限りないほど高い。ただ、一度盤面に置いた石は動かすことはできない。

ルールもたった一つ  ー  「相手の石をすべて囲めば、その石は死に、盤面から取り去られる」というものだ。これは言うなれば「公理」である。

囲碁の初心者は「石は目が二つあると生きる」と習うが、これは「公理」から導き出された公式の一つにすぎない。

・・中略・・

将棋と囲碁ではどちらが覚えやすいかということになれば、実は圧倒的に将棋なのである。これはゲームの目的と手段が一致しているからだ。

一方、囲碁においては、ゲームの目的と手段が異なるケースが多い。この説明は実に難しい。

囲碁では常に相手の石を殺すための「戦い」が繰り広げられているが、最終的には、より多くの地を取った者が勝ちというゲームである。

では、「地を取る手」を打てばいいではないかと思えるが、そうではない。地を取る(囲う)手は勝利に最も遠い手になることが少なくないからだ。

碁においては、相手の石を攻める「戦い」の手が最も有効な手であることが多い。

ならば、「戦い」に強い者が勝つのかといえば、そうではないからややこしい。

このあたりはさながら禅問答のようでもあるが、アマチュア高段者なら筆者の言っていることも理解してもらえるだろう。

しかし、囲碁を知らない人が聞けば、まるで意味不明のことを言っていると思われるかもしれない。

実はこれが囲碁の玄妙さであり、複雑怪奇なところなのだ。”(p56-58)

説明はまだ続きますが、引用文を読むだけでも只ならぬ奥深さの感じられる囲碁を題材に、

” 囲碁の家元の目標は、一門から「名人」を生むことだった。

・・中略・・

江戸時代の二百六十年間に誕生した名人はわずか八人。およそ三十年に一人である。いかに狭き門であったかがわかる。

その座をめぐっての四つの家元の争いは、まさしく命懸けの勝負の歴史でもあった。

この物語は、その中でも最も激しい戦いを繰り広げた江戸後期「文化・文政」時代にかけての囲碁界が舞台である。”(p17-18)

という碁盤を挟んで激しく火花を散らす棋士たちの物語。

下巻を合わせると計837ページに及び繰り広げられる熱き人間ドラマの展開を楽しみに読了へ向け進んでいきたいと思います。

 


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