女優 浜木綿子さんが、演劇ジャーナリスト小玉祥子さんの聞き取りをもとに
” この本は、私の信頼する元新聞社の演劇担当記者で、三十年近いお付き合いのある小玉祥子さんから「人生のいろいろを聞かせてください」とお話をいただいたことから始まりました。”(p02)
と90年の軌跡を辿った『浜木綿子 楽しく波瀾万丈』を一昨日読了。
空腹を満たした後、書店に「何か出てるかなぁ」と、ふらっ〜と立ち寄った際

サイン本を見つけ、直近では泉ピン子さん等俳優の方のサイン本となると反応したなる傾向あり購入に至っていた経緯。
私の中では浜木綿子さんのお名前は朧げに頭に入っている程度、九代目 市川中車こと香川照之さんの母上という印象という読み始め前の出発点から
“「あの群舞に自分も入りたいと強く思いましたね」
そのためには難関の宝塚音楽学校に合格する必要がある。姉も受験を希望したが両親の反対にあって断念した経緯があった。
「でも私は言うことを聞かない子。音楽学校では勉強も教えてくれるからと、ついには両親も折れ、受験予備校に通わせてくれました」”(p21)
と中学生時代の宝塚大劇場での宝塚歌劇団公演観劇に始まった役者道から
” 結婚後は専業主婦になるつもりであった。
「ですが、猿之助さんに『仕事をして欲しい、あなたには女優として成長して欲しいんだ』と言われたんです。「やりたくない」と思いましたが、東宝に行って菊田先生にお目にかかり、『こういうわけで舞台に出たいので、これからもよろしくお願いします』とお話ししました」”(p76)
という分岐点から女優のキャリアが継続されるのと並行して
” 『「照之は絶対に渡しません」と最初に伝えました。初めはね、『いや僕も欲しい』と言われましたが、それだけは絶対に譲れません。あちらもすぐに引き下がったので、ほっとしました。その時、一番の宝物をなんとか守ることができた、これからこの子と歩んでいくのだ、と固く決意しました」”(p93-94)
結婚生活に終止符が打たれるも、母として生きる決意に貫かれた生涯が約250頁に及んで綴られています。

印象に残ったのは、
” 「カトちゃんはまじめな方なので、こちらからしかけてみようかと思いました。それで、いきなり『あんたの顔を見ていたら、何や、ぺとやりとうなったわ』と言ったんですよ。びっくりしたような顔をしたカトちゃんに、『ちょっとやってみ』と続けました。ところがおそるおそるだから、カトちゃんがやってもお客様に受けません。『あんた間が悪い』と役の台詞として言いました」
加藤も考えて翌日から間を変えてきた。”(p199)
という人気絶頂時のザ・ドリフターズ加藤茶さんに仕掛けた即興劇に、
“「この作品では浜木綿子の歌声が印象に残っていますね。日本のミュージカルの初期の歌い手の中では抜群でした。」”(p66)
や
“「ほんとうに浜木綿子には、あるフンイキを感じました。それに大へん堂々としていて、女優ぶりも大きくなった感じでした」(野口久光)”(p86)
など次第に確立していった格に、そして
” 四十六歳で歌舞伎界に入った方なんていらっしゃらないでしょう。わが子ながら感服して、私も肝を据えなくてはと思いました。「この船に乗らざるを得ない」と言うのなら、そよ風ほどにしかなりませんが、船を後押ししたいという気持ちになりました」”(p236)
と(母 浜木綿子さん)の猛反対を押し切って俳優(〜歌舞伎)の世界に飛び込んだ 市川中車さんへの思い、全うしてきた母の生きざまを感じ取れる一代記でありました。