福本豊さんが野球ファンに語り継ぐ阪急ブレーブス史:『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』読了

 

世界の盗塁王こと福本豊さんの『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』を読了。

 ざくろの如く化した手と、情報戦を掛け合わせての念願

通常、弱くてファンの期待に応えられず、球場が閑散してしまうところ、阪急ブレーブスの場合、パ・リーグ優勝を重ね、日本一になっても、ファンが球場に足を運んでくれないジレンマ。

阪急ブレーブスの球団史は53年間に及んだとの事ですが、当初は勝てないお荷物球団、「灰色のチーム」と称されていた時代に始まり

そこに悲運の名将、故西本幸雄監督が就任され、厳しく鍛え直した事にリーグ屈指の強豪球団の道を歩み始め、初優勝は球団創設32年目(1967年)にして。

そこには東京オリンピックが開催された1964年に来日したダリル・スペンサーの功績も大きく、スペンサーは・・

“「相手ピッチャーの手首のシワまで見て、球種を見抜いた」と話す先輩までいた。

プロなら普通、そんな情報をチームメイトにも明かさない。スペンサーは違っていた。ブレーブスの初優勝(67年)のためには、全員の力を集めなければ勝てない ー と考えたのではないか。そのメモを開いて、ナインに敵の情報を教え始めた。” (p27)

また、四番バッターとして打線の中心を担った長池徳士さんは・・

” バッティングマシンを操作して、長池さんはひとりで打ち込んだ。ホームプレート寄りに立ち、さらにボール1個分だけインコースに来るようマシンをセットした。

毎日400球。手のひらの皮がむけて、さらにそれがひび割れて、グチャグチャで、まるで真っ赤なザクロに実に見えた ー と後に西本監督から聞かされた。” (p30)

と、チーム全体及び個のハードワークに、メンタルな掛け合わさってのチーム力の開花であった事が読み取れます。

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阪急ブレーブスの黄金期を主力として牽引した福本豊(著者)

降りて来ない野球の神様

但し、リーグは制すれども、そこに立ちはだかったのが球界の盟主として君臨する読賣ジャイアンツ。

1967年の日本シリーズからさっぱり勝つ事が出来ず、チームの主軸を担った加藤秀司さんをして

” もし野球の神さんがおるとしても、その神さんは王さんと長嶋さんの所へばっかり降りて来る。俺(加藤秀司)なんかが10回やって1回打てるかどうかという場面で、2人は必ず打った。特に長嶋さんはねぇ。阪急がワンサイドの展開にしない限り、巨人には勝てん ” (p40)

と言わしめるほどに。しばし、立ちはだかる厚い壁に跳ね返されるも、

本来、コーチとして招聘をしようと考えていた山内和弘さんに断られて、変わりに推薦された上田利治さんがコーチとして入団され、監督になられ、遂に1972年に日本一の称号を手中にする事になる。

そこから層の厚さは12球団 No.1 という充実の時を迎えるに至るも、思ったようにファンは球場に足を運んでこれず、方やグランド外では

” 球場へ足を運ぶ客は少なく、テレビ放送など滅多に無かった。僕(福本豊)が初めて盗塁王になった(70年)ころ、銀座のクラブで「阪急の福本」と名乗って飲み代を踏み倒した客がいた。” (p111)

という有り様、、。また、1978年から阪急ブレーブスが本拠地としていた西宮球場では競輪が開催されるようになり

” この78年から人工芝に張り替えられた西宮球場では、競輪も催されるようになった。ブレーブスが遠征に出ると、夜を徹してグラウンド内に1周330メートルの、いわゆる「3・3バンク」がくみ上げられた。競輪は週に3日間開かれた。

「このひと開催だけで、ブレーブスの年間興行収益を上回ります」西宮球場のの安宅隆球場長は小さな声でそう明かした。” (p146)

「灰色の勇者」から「最強の勇者」と呼ばれるようになり、1986年になって、遂に念願の年間100万人の観客動員を達成。但し、この頃のブレーブスは、チームとしての絶頂期は過ぎていたという皮肉。

口をスライディングされての引退決意

福本さんと共に、チームをエースの立場で支えた山田久志さんが1988年のシーズン終了を以て、引退を決意。

そこに振って涌いたかの阪急ブレーブスの球団譲渡話し。山田さんと共に予め球団から事情を知らされた福本さんは、揃って

” (上田)監督、これってビックリカメラなんでしょ!?” (p191)

と青天の霹靂であったそうで、一ファンの私も然りでしたが・・、本を読んでいて更にびっくりであったのが・・

” 10月23日。ロッテとのダブルヘッダーが、阪急ブレーブス最後の試合になった。西武と中日による日本シリーズ第2戦と重なった。西宮球場の内、外野とも無料で開放された「サヨナラ・ゲーム」で、入場者数は3万7000人と発表された。

第2試合、山田は完投で4勝目を挙げた。僕は「一番・センターに」に戻って、シーズン44本目のヒットで締めくくった。

「山田久志の引退試合」と、僕は思っていた。すべてが終わったマウンドに、上田監督を挟んで山田と僕は立った。

「今夜を最後に辞める山田、そして福本・・・・・・」と、監督はスタンドのファンに別れの挨拶をした。つい口を滑らせて「福本も」と言ってしまったらしい。

大勢のファンに向けられた監督のメッセージだったから、僕にはどうしようもなかった。そのひと言で、僕は現役ではなくなった。” (p194)

「え”ー」って感じ、アメリカの野球殿堂博物館でも現役時代の愛用品が飾られているほどの世界的選手の最後にしては

何ともトホホなエンディングで、さぞ福本さんの心中も複雑であったというか、お人柄というか・・ そういえば、福本さんに国民栄誉賞の検討が成された時に

「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」

とコメントした事は、一部のファンの間ではお馴染みですね(笑)

個人的にはその昔、ベースボールマガジン社が選手名鑑に選手の自宅住所を記載している時期があり、そこに往復葉書で福本さんにファンレターを出した際に

「やったぜ1,000盗塁!」の文字付きで福本さんの直筆サインが返信されてきた時の感激も福本さんの人柄に直に触れられた思いでした。

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53年で球団史に幕を下ろした阪急ブレーブス

 

野球少年時代へのタイムマシン的1冊

強くてもファンが集まらなかった阪急ブレーブス、「あとがき」で著者の福本さんは・・

” 経営不振の阪神を救うため、阪急は1兆円を使ったと言われている。阪急球団による年間20億円の赤字など、大した問題ではなかったろう。

阪急が球団譲渡に踏み切った真の理由は「金額」ではなく、「イメージだった」ー 今になってそう思う。

「灰色のイメージ」を塗り替えようと、阪急ナインは懸命に頑張った。強いチームが完成したころ、「それでも人気の無いブレーブス」と呼ばれた。” (p196)

昭和の野球史に燦然と輝く戦績を残したものの、球団最後試合は日本シリーズの裏開催であったり、強さと観客動員が比例しない悲哀はあったものの

自分がその昔、野球少年であった頃、週末などに新聞のTV欄で阪急戦の中継があるのを見付けたり、家に日本ハムとの対戦で阪急戦のチケットが入手出来た時のワクワク感。

阪急ブレーブスの時代の空気を吸っていたものとしては、何とも独特なノスタルジーに浸れる玉手箱のような1冊でありました。

 

 


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